「当たり前」の起源


時々自分のことが恐ろしいほどに嫌いになる。

昨日までは長所だと思ってたことが一瞬で短所に変わってしまうのだ。

でも逆に、時々自分のことが急に好きになることもある。

昨日までは短所で最悪だと思っていたことがいつの間にか長所に変わっているのだ。



長所と短所は紙一重だとよく言うけれど、
本当にその通りだと思う。

でもだからこそ、
私は自分の一番の味方でありたいし、
同時に一番の敵でもありたいと思ってる。


私のことを一番理解してあげられるのは私。
でも一番めっちゃめっちゃに否定してあげられるのも私。


人によっては後者が親や親友ということもあるかもしれないけど、
少なくとも私は自分自身。

ニヒリストでも二重人格でもないけど、
心の中で時々2つの私を闘わせてる。

京都を散歩してたら、こんな張り紙がしてあった。


綺麗に言い換えていまえば、
私は物事を2側面から眺めることが得意だ。

これはすごく小さな頃から無意識にやってきたことだから、
天性の才能というよりは積み重ねの結果といった方が良いかもしれない。

きっかけは幼稚園の先生の一言。
登園日初日にガキ大将的な男の子をケンカで泣かせてしまった時、
「自分がやられて嫌なことを人にしてはいけません」
と、言われたのだ。


そう、たったそれだけ。
でもその一言は小さな私の頭にすーっと入っていって、
いつの間にかこびりついてしまった。

あの日からずーっと、私は他人と関わるときは常に
「相手の嫌がることをしていないか」ということばかり気にし、
物事を自分からの目線、相手からの目線の2パターンでいちいち考えている。

自分の記憶を頭に思い浮かべたとき、
映像の中に時々自分がいるのもきっとそのせいだろう。
相手からの目線で無意識に状況を眺めている何よりの証拠だ。
だって本当はその映像の中に私がいるわけなんてないのだから。



幼児期の体験は人間のアイデンティティの確立に大きな影響を及ぼすと言うが、
本当にその通りだと思う。
現に私は幼稚園の先生の一言にとてつもなく大きな影響を受けている。


でもこうやって自分の”当たり前”の起源を昔に探すのは意外に面白くて、
他にもいろいろあったりする。

余計なお世話かもしれないが、
もし時間があるのなら、ふとした瞬間に考えてみると面白いかもしれない。


前はよく心の中の2側面の葛藤をノートに書いて闘わせてたなぁ…


実は最近、意識的に2つの側面から物事を見ないようにすることがある。

理由は簡単。
全部の物事を2側面から眺めて心の中で討論させると、
結局無難で一番安全な結論しか出ないから。

だからあえて1側面からしか物事を眺めず、無意識なリスク回避癖を脱しようとしてる。
前にもこのブログに書いたかもしれないけど、
転ぶことを恐れる人間に出来ることなど何もないと私は思ってるから。

逃げていたら何にもならない。
本当に必要なのは小さな成功体験の連続ではなく、大きな失敗だと思うからこそ、
私は、その苦しみの中に指す光を見つけられる人になりたいのだ。

今の私はほんとに臆病者で、苦しみに飛び込むための勇気もそんなにないから、
そういう人に対して変な憧れみたいなものがある。
「あんな風に、目がキラキラしてる人になりたいなぁ」
とか、結構本気で思ってたりするのだ。


だから、つい先日始めた「手紙」の小さなプロジェクトは、
実は私にとって小さくて大きな一歩だったりする。

始める、って決めたとき、あえて「味方」の私の意見しか聞かなかった。
「自己満足から拡がるものがある、目的は変革ではなく感化だ」
と、信じてみることにしたのだ。

「敵」の私は今のところ完全シカト状態。
だって耳を傾けたら自分のやっていることがきっとおめでたいだけに見えてきちゃって、
一瞬でブログを削除したくなっちゃうから(笑)



いつだって長所と短所は紙一重だ。
だからこそ、私は自分の最高の「味方」であり「敵」でありたい。

独りよがりに聞こえてしまうだろうか?
でもそれでも構わない。
これが私だし、何よりそんな私を認めてくれる人がいるから、
こういう人もそれなりにありなんじゃないかと思ってる。


さて、1年後の私は苦しみの中に飛び込む勇気を持てているのだろうか。
そしていつか、苦しみの中に指す光を見れるのだろうか。

恐いけど、見ていたいなぁ。
絶対きれいだもん。



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