それから私は、良い意味で自分を信用しなくなった


紺色に染まった空の下、
ゆっくりゆっくり坂道を登っていく。
今日の夕飯は鯖の味噌煮だと、
朝玄関先で母が言っていた。
きっと家に着く頃にはごはんが炊き上がっていて、
しばらくしたらお腹を空かせた弟が帰ってくる。

そうしたらもうご飯の時間だ。
お茶碗を出して、湯飲みを出して、
お箸を揃えたら準備完了。
湯気をたてたお皿が運ばれてくる。

美味しい匂いに「いただきます」をしたら、
今日あった話を面白おかしく報告するのだ。

リビングにて。寝っ転がって、パシャリ。

高校生の頃、単調な毎日が嫌いだった。
というより、恐かった。
どこからか湧いてくる焦燥感と劣等感。
常に新しいもの、新しい場所を求めないと、
安心できなかった。

何を怖がっていたのか誰と比べていたのか
今となっては思い出せない。
単に自分に価値があると思えなかったのだと思う。
何かをしていないと
周囲からあっという間に忘れられてしまうような気がした。

でもある時ふと気付いた。
みんな、案外優しいのだ。
思っているよりずっと、あたたかい。
分かりやすく見えやすい成果がなくたって、
表彰なんかされなくたって、
認めてくれる人たちはいる。

一つのものさしで自分を測るから、苦しくなるのだ。
社会的評価だけじゃなく、考え方とか、性格とか、
ものさしの種類をたくさん持てば良い。
そう気付いてから、随分心に余裕ができたように思う。

いつしか自分の捉え方だけじゃなく、
世界の見え方も変わっていった。

山の向こうに沈んだ夕日。徳島県上勝町にて。


さて、1月の終わり、高知と徳島に行ってきた。
温泉に入ったり、再会をはたしたり、
新しい景気を見たり、新しい人に出会ったり、
なんやかんやで彩豊かな旅だった。

印象に残っているのは、
高知から室戸岬を経由して徳島に向かうバスの中でのこと。
乗っていた数名のおばあちゃんと運転手が
急に仲良く話し出したのだ。
後部座席で様子を伺っていると、
察するに彼らは今日初めて会ったらしい。
にも関わらず、どうして旧友のようにことばを交わしているのか。

感覚値でしかないが、
「住まう地」という共通点が生むむすびつき
目にした瞬間だった。
ここは彼らの地なのだと。
空間全体から諭されているような気すらした。


それから私は、良い意味で自分を信用しなくなったように思う。
旅先で私は余所者以外のなんでもない。
実際、出会った人と私の間で交わされることばに
その人自身はほとんど現れないのだ。

それより、その人が他の誰かと交わすことばや所作に
目を向けた方が多くのことが見えてくる。
ただ表情や行動を眺め、黙って聞くのだ。

するといろんな感情や本心が見えてくる。
優しさもイライラも迷いも全部。
もちろんそれが全部正解とは限らないから、
仲良くなったら答え合わせをすれば良い。
焦る必要なんてないのだ。

百間滝


旅をする度にものさしが増えて、
いろんなことが見えてくる。
最近強く思うのは、
感情も発見もつくることも家も旅も仕事も全部
「生きる」ことの一部にしたいということだ。
これは自然な欲求なのか、それとも夢見がちなワガママなのか。
答えはゆっくり探していきたい。


最後に余談だが、最近気付いたことがある。
旅をするようになってから、家が好きになった。
行きたい場所が出来たから、帰りたい場所が出来たのだと思う。
一度離れないと大切なものは分からないっていうのは、
どうやら本当らしい。
姿形はないけれど、時間も距離もあなどれないものだ。

さぁ、今月はどこに行こうか。
ギリギリまで悩んでみることにしよう。


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