選ぶものと、選ばれるもの



お昼時になると、
じりじりと焼けるような日差しが空から降ってくる。
むき出しになっている腕が少しだけ痛い。

そうか。本当はもう、
日焼け止めを塗っていなくちゃいけなかったんだ。

夕暮れ時の8回裏

先週の木曜日、
友達との待ち合わせ時間まで図書室で本を読んでいた時、
ふと、もう秋まで大学に来ないことに気づいた。
あと30分で駅に向かわなければいけないのに。
静かな空気が急に寂しさの結晶のように思えてきた。

大量に並べられた本たちのほとんどは、
誰にも手に取られることなく、
この夏をただ淡々と本棚の上で過ごす。

選ぶものがいれば、選ばれるものがいる。
選ばれるものがいれば、選ぶものがいる。

選ばれるものには、どれだけの自由があるのだろう。
いつか誰かの手に取られる日を夢見て、
粛々と自分の価値を信じるしかないのだろうか。

いったいそれは、誰にとっての正義なのか。
私には全く、検討もつかなかった。

壁を登る人形ポストイット達

社会には、いろんな正義がある。
の正義。あなたの正義。
の正義。彼女の正義。
彼らの正義。私たちの正義。

でもそれらは全然イコールになってくれない。
だって、みんな1人ひとり違う個性を持っているから。
そんなの当たり前。

でも時に、正義は「異質」に見えたりする。
いわゆるマジョリティから見えるマイノリティーとか、
歴史上に見る独裁政治ってやつだ。
その認定にどれだけの公平性があるかはよく分からないけど、
結局どこかの時点で私たちの正義と彼らの正義は
明確に区別されてしまう。

その区別は、朝はごはん派かパン派かから始まり、
国際的な差別問題まで続いて行く。

◯か×か、0か1か。
結局問いかけは一緒なのに、
子供同士だと殴り合いのケンカ、
大人と子供だと口喧嘩、
大人同士だと時々武器が出てきてしまう。

実は口喧嘩が一番平和だなんて、
思春期の子を抱える親に言ったら怒られちゃうね。

木に1つだけ、リンゴがなった。

昨日の夜、久しぶりに『3月のライオン』を読んで、
自分が何をしたいのか急に分からなくなった。
「自分には将棋しかなかった」と言う主人公のことばに、
私の中にある根深い劣等感が呼び起こされてしまったのだ。

多趣味で興味が広い私は、
同じことを何年も続けることができない。
13年続けていたバイオリンだって、
実は練習なんてほとんどしてなかった。
自分の意思で3年以上集中して頑張れたことなんて、
何一つないのだ。

今、私の手にあるちょっとばかりの自信は、
全て短距離走で得た成果が種になっている。
もちろん、それが自分の良さでもあるが、
どうしても長距離走型の人間への憧れが捨てられないのだ。

1つのことにのめり込む人が格好良くて仕方ない。

そうでない私に頑なに×印をつけようとしているのは
の正義なのか、それとも努力家を誉め称える彼らの正義なのか。


もう8月が始まる。
そうか。本当はもう、
いつまでも選ばれるものでいちゃいけないんだ。


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