「決断」について私が思うこと



もうすぐ新年度が始まるこの時期。
何かと「決断」を下さなければならない機会が多くなる。

決断。選択。決定。
いろいろと言葉はあるけれど、結局どれも最後は自分との闘い。
「本当にこれでいいの?」と、
何度も何度も自分に問いかけるその時間は、
果てしなく長く、正解が分からない故に苦しい。
遠い昔、唯一「切らない」という決断をされた
来宮神社の樹齢2000年の大クス


何かをしたいのであれば人は決断をしなければならないのは当たり前。
今時小学生でも知っていることだ。

けれど当たり前になったこと程、その本質は見えにくくなってくる。
正しいのか、正しくないのか。
意味のあることなのか、意味のないことなのか。
そしてそれを決めるのは私なのか、他の誰かなのか。

凝り固まった習慣、考え方が与える物は何か、奪うものは何か。
考えれば考えるほど、思考は混沌の渦へ巻き込まれていく。

問題はそこからどう脱するかだ。

  
他の人がどうしているかは分からないが、
私は1つだけ自分なりの脱出方法を持っている。

「決断」をする時はとにかくいろんな側面から物事を眺めて悩みに悩む。
そして最後の最後に、「これでいいかなぁ…」と仮の決断が出たタイミングで、
「それは10年後の自分へ向けた最善の選択なのか
という問いを自分に投げるのだ。

変な話かもしれないが、私はこの問いに何度も自分でハッとなり、
時に落ち込み、時に確信を得てきた。
だから、一度くらい試しても損ではないと思う(笑) 


実は時々、私はその問いを他人に投げもする。
もちろんそれは、その人が本気で悩んでいる場合だけなのだが…、
だいたいの場合、否定や過剰な同調の代わりに
「それが悩みに悩んだ末の答えで、最善の選択だと思うならいいと思う」と伝える。

 曖昧なことばすぎて、投げやりな態度に思われてしまうかもしれないけれど、
これは受け取る人によって「同意」にも「問いかけ」にも聞こえる不思議なことば。
覚悟や迷いが簡単に浮き出てくる、ちょっぴりずるいことばなのだ。
海底に指す光

結局、最後に決断するのはいつだって自分。
だからこそ私は自分に問いかけ、また同じように他の誰かへと問いかける。

自分が悔いなく「決断」できるように。
そして誰かの「決断」に少しでも寄り添えるように。


悩みに悩んだ末の「決断」ならば、
それがどんなものだったとしても私は尊重したいと思っている。
自分も他人もそこには関係なくて、正しいか間違っているかも関係ない。

「決断」をしたことにただ誇りを持っていたい、持っていてほしいと、
心から願っているだけなのだ。
偽善に聞こえてしまっても別に構わない。


最後に余談として、
私が「決断」をする時に大切にしているものを書いてみる。
それは「直感」「夢」だ。

悩みに悩んだ末に最後に頼るのはいつもこの2つ。

「直感」を信じるのは、
自分の中の暗黙値を信頼してるから。

「夢」を信じるのは、
自分の深層心理がメタファー化されたものだと思っているから。

1つの物事について悩み続けてると、
今持っている考えやことばが自分の目線で見ているものなのか、
他人の目線からから見た物なのかがだんだんごっちゃになってくる。
自分の本音が迷子になってしまうのだ。

だから私は時に自分の経験の積み重ねがつくりだす「直感」を信じ、
「夢」の中に自分の本音を探しにいく。
そこにはある意味、何の制約も建前もないからだ。


「決断」というものはどうにも難しい。
実際、今の私も現在進行形で悩みの渦中にいる。
この1〜2週間、本を読んだり、人の話を聞いたりしながら
何が最善の選択なのか、いつもいつも考えてきた。

誰かに取っては大したことないことかもしれないけど、
私にとっては大きくて大事なことだから、正直決めることはすごく恐い。

でもそろそろかもしれない。
覚悟を決めなくちゃ。


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